筆者の横顔
- 氏名
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齊藤 誠
- 生年月日
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昭和46年3月11日
- 出身地
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香川県(香川以外で暮らしたことがありません)
- 職業
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会社員(ゆっくり旅に出られる時間が少ないです)
はじめまして、齊藤誠です。そして、ようこそ「汽車に揺られて」へ。
私は小さい頃から汽車が好きで、家の窓から電車をよく眺めていました。小学生の頃に住んでいた家の近くには通称「ことでん」こと高松琴平電鉄が走っていましたし、父の実家の近くには国鉄(現JR)高徳本線の栗林駅があり、母の実家の横には国鉄多度津工場がありました。結婚するまで住んでいた今の実家はJR高徳線の沿線にあり、結婚してから2度変わった住まいも近くにことでんやJRが走っています。
つまるところ、私の半世紀におよぶ人生は鉄道のある環境の中で過ごしてきたことに事になります。これで鉄道に見向きもしない子だったら、逆におかしかったのかもしれません。
ところが、これほどまでの環境がありながら、実は中学生の頃までは小中学生の子らが好んで覚えそうな車両のみならず日本の鉄道そのものの知識は無いに等しいものでした。単に見たり乗ったりが好きだっただけのようです。それが中学3年のときに父に連れられて高松駅に行って(父が鉄道好きというのではありません)車両の写真を撮ったことがきっかけでそれまで燻っていた鉄道への関心が高まっていきます。そして、高校1年が終わる春休みに本編でも度々登場する目黒君や楠君らと「青春18きっぷ」で秋田旅行へ行ったことから鉄道との関わりが決定的になります。
それからというもの、毎年3月頃には近場、遠方を問わず決まってどこかへ旅に出るようになりました。それを私は洒落て「春旅」と名付けていました。そうして、一浪の末に大学へ進学します。
地元の大学に入った私は夏前からアルバイトを始めます。それが旅の資金になるのは言うまでもありません。幸い地元の大学ということで自宅から通えたので、家に入れるお金と学費の一部以外は全て私の小遣いという状況と大学特有の長い春・夏休みを利用して、年に数回は旅に出るようになりました。目的はJRの全線完乗です。当時既に出版から20年以上経っていた故宮脇俊三氏の著書「時刻表2万キロ」に影響されたのです。氏が完乗を達成された当時と比べてもJRの営業キロは3分の2くらいに減ってはいましたが、それでも相当な距離です。だから、卒業までに終わらせるように計画して「今回は九州、次は東北」といったように行き先を決めて、乗り潰していきました。
この頃ともなると、私の鉄道好きも少し変わってきていました。それまでは気になる車両が別のホームに停まっていると何が何でもそこまで行って撮影をしたり、入場券や途中下車印欲しさにわずかな停車時間の間に改札まで走って求めていたりしていました。でもそれが、車両の撮影は十分な停車時間や乗り継ぎ時間がある場合は別ですが、時間がないときは車窓から見える範囲でしか撮らなくなり、入場券は買わなくなりました。もちろん根は鉄道が好きですから、この車両に乗りたいとか撮影をしたいというのは少なからずありますので、今でもそういう車両は乗ったり撮ったりはしています。国鉄時代から残っている車両となると特に力が入ります。ただ、無理をしなくなったということです。
代わりに車窓風景を撮るようになり、食べた駅弁の包装紙や駅に置いてあるパンフレットを持ち帰るようになりました。そうすると、今まで短い時間で車両の撮影や入場券の購入などであくせく走り回っていた数分間が案外長く感じられるようになりました。長い停車時間や乗り換え時間があるときは駅名標や駅舎の撮影もしていますが、それは長い時間の中の一部ですから、慌しくはありません。もっとも、あれもこれも欲張っていると発車間際に慌てて列車に乗り込むということがたびたびあります。
車窓風景を撮るようになったのは私が写真部に所属していたのが大きかったと思います。そもそも動機は鉄道を撮りたいということから入りました。でも、車両の形式写真ばかり撮ることに物足りなさを感じていきます。そこで風景を撮ることに目覚めたのです。だからといって鉄道写真をやめたわけではなく、車両を点景とした写真に興味を魅かれていきます。文化祭などの展示会に出展する写真が毎度毎度車両の写真では、という抵抗感が芽生えてきたのです。その結果、草むらに埋もれた廃線跡や出発前の夜行列車の表情や改札での雑踏などの写真を撮っては作品として出展しています。こういうのは形式写真と違って、風景や生活の中に「鉄道」があります。私の撮る写真にどれほどの芸術性があるのかは分かりませんが、かくして、鉄道の形式写真を撮る比率はだんだん減っていき、代わりに風景写真の割合が増していったのです。これによって、私の写真の幅が広がっていったように思います。こんな偉そうなことを書いても、作中に添付している画像は車窓か駅の内外で撮ったものばかりですので、形式写真だったり目に入ったままの山、川、海などの写真だったりします。
また、駅弁の包装紙やパンフレットの持ち帰りは誰でもやっていることを真似ているだけです、入場券の値段は140円ないし160円で、その金額は500ミリリットル入りのペットボトル並みの金額です。それを考えると、入場券は駅名標の撮影さえすればわざわざ改札を出て並んで買わなくてもいいし、駅弁の包装紙は駅弁を買って食べれば持って帰ることができます。食事ができて、その上、駅の記念になる一品も持ち帰ることができるので一石二鳥なわけです。主に食するのは幕の内弁当には失礼なのですが、なるべく幕の内を避けていわゆる「特殊弁当」(死語?)にしています。でも、駅弁売り場に立って様々な駅弁を見ていると、地元の食材を使った魅力的な幕の内があったりして、そういうときは幕の内を求めます。懐具合が寂しいときは駅やホームの立ち食い蕎麦、キヨスクのパンや菓子で済ますこともあります。
こうして、走り回ることをやめて、停車中は駅名標を撮ったり、時にはぼぉっとしたりして、汽車が走り出せば車窓に釘付けになるというスタイルに変わり、しかも基本的に普通列車が移動手段のメインとなると、これまでの「点の旅」から「線の旅」への変貌、というと大げさかもしれませんが、確実に変化はしてきたと感じています。それに気付いたのが、大学の1年が終わった春旅あたりだったように思います。
そして、大学3年の夏休みの旅でついにJRの全線完乗(当時)を果たします。それからは乗りたい線、乗りたい列車や車両、行きたい観光地、食べたいものなど目的を決めて出かけるようになりました。完乗という大きな目標を達成したことで、かえって好きな旅ができるようになったのです。乗ることだけが目的だった完乗とは違って、目的地で観光や宿泊という普通の旅ができるようになりました。大学4年の春には目黒君と北陸の温泉めぐりをし、夏には各地に点在する中高生時代の友人の下宿先へお邪魔する旅をしています。
晴れて社会人となった私は、時間が制限されても旅を続けます。本サイトに収録されている作品は社会人となった年の夏以降に行った旅の紀行文です。
年によって前後はしますが、平均で年2回ペースであちこちに出かけています。でも、読んでいただくと分かると思いますが、やはり時間の制限は厳しく、その中でいかに周るかというのは毎回頭をひねります。ゴールデンウィークですらうまくいって5連休、普段は3連休が最長なのですから仕方がありません。どう頑張ってみても前日の夜の夜行列車でスタートするのが精一杯です。こうやってみると、学生時代にJRの完乗を終えておいてつくづくよかったと思います。
結婚してからは時間の制約に加えてお金を使える自由度も小さくなっていきます。当然といえば当然なのですが、これは即行き先に影響を及ぼします。すなわち結婚してからの旅は「花よりダンゴ」以降なのですが、始めのうちは中四国が目立ちます。遠くても目黒君の住んでいる関東までしか行っていません。共通するのはそのどれもが友人の住んでいるところで、泊めてもらって宿泊費を浮かしているということです。行った先々の友人には迷惑だったかとは思いますが、そうでもしないと予算内で旅などできません。例外は平成14年の2度にわたる東北行きです。その後、予算は増額と相成り、遠くへ行くことが可能となったのは幸いというべきでしょう。
ちょっと貧相な話になってしまいましたが、これだけの制限や制約があってもやはり旅は好きですから、やめられません。だから、また次の旅を計画しては汽車に乗って出かけて行きます。それでは、こんな私の旅の世界をごゆっくりお楽しみください。