敦賀へ行ってきた その19
氣比神宮を見て終わり、次の場所へ向かう。
到着したのは敦賀港に面した金ケ崎緑地で、最初に目にしたのは敦賀鉄道資料館。が、17時閉館で今は17時前。なので、中に入るのは諦めた。これはこの地に当時の駅舎を再現したものだ。
1882(明治15)年に敦賀から敦賀港へ敦賀港線という北陸本線の支線が開通し、その終着の金ケ崎駅として開業した。1897(明治30)年に一旦旅客営業が廃止されたものの、1912(明治45)年にウラジオストク航路の発着日に限って再開。1919(大正8)年に敦賀港駅に改称。欧亜連絡列車は東京から敦賀港へ行き、ウラジオストク航路で日本海を渡り、シベリア鉄道でロシア、ソ連を経てさらにパリまで17日で結んでいた。当時、日本-ヨーロッパ間は航路で約1か月かかっていたから半分ほどの日数で済むようになり、画期的なことであった。しかし、これは戦争の激化によって1940(昭和15)年で休止され、戦後は航空機の時代に入り、復活はならなかった。
建物の脇にあった柳ヶ瀬トンネルの扁額のレプリカ。伊藤博文の書いた「萬世永頼」。柳ヶ瀬トンネルは木ノ本-敦賀間の北陸本線の旧線(のちの柳ヶ瀬線)にあったトンネルのひとつで柳ケ瀬峠を越えるために設けられた。
敦賀港。海上保安庁と福井県警の船が浮かぶ。
正面に見えるのは敦賀半島。
角度を変えて。海に沿って自転車を走らせる。
これは船の舳先をイメージした展望所。映画「タイタニック」の1シーンをやる人がいそう。
同じ場所から反対側にある芝生広場を撮る。
遊歩道の端まで来てみた。この角度だと全体が見られる。
金ケ崎緑地から出て臨港道路5号という道沿いに「人道の港 敦賀ムゼウム」という建物がある。1920年代のポーランド孤児や1940年代のユダヤ難民を受け入れた歴史を今に伝える施設だ。が、ここも17時までなので入れない。
コンテナ群。この辺りが敦賀港駅があった場所だ。
休憩所。教会のような建物だ。
こうして見るとだいぶ日も傾いてきた。
散歩するのによさそう。
向かいにある敦賀赤レンガ倉庫。敦賀の食が楽しめるレストランや敦賀をイメージした鉄道模型の巨大ジオラマがあり、一見の価値はある。でも、ジオラマ館は17時までとやっぱり入れない。レストランは22時までの営業だけど、夜の店は決めてあるのでレストランにも入らない。どこもかしこも外から眺めるだけになっている。乗ってきた列車の関係とはいえ、16時から観光というのがそもそもの間違いなのである。
この建物の横にキハ28気動車があり驚く。これは小浜線が最後となったキハ28を静態保存しているのだ。国鉄色に塗りなおされているのがいい。ヘッドマークのデザインが土讃線急行のそれかと思い、思わず二度見してしまったが、列車名は小浜線ゆかりの「わかさ」だった。私はキハ58系が好きで、中でもこのパノラミックウィンドウを使った窓と床下にスカートを履いたこの手のタイプが好きだった。
こちらにもトンネル扁額のレプリカがある。これは敦賀-今庄間にある北陸トンネル開通に伴って廃止された杉津経由のルートにあった葉原トンネルのものだ。黒田清隆による「與国咸休(よこくかんきゅう)」と
「永世無窮」の文字。
金ケ崎緑地のバス停に立つ恐竜。福井は恐竜の化石が多く採れるということで、こうして恐竜がいろいろな場面で使われている。では、最後にこのエリアで一番気になるところへ行こうと思う。
これこそが敦賀港線の跡で2009(平成21)年に廃止された。開業が1882年だから127年営業していたわけだ。先ほど見たコンテナ群のあったところが駅で今はトラックで積み下ろしをしている。敦賀方面。
同じ踏切から反対の敦賀港方面。
別の踏切から撮ったもの。敦賀方面。信号機も残っている。
同じく敦賀港方面。柵がなければ、今にも貨物列車がやってきそうな雰囲気だ。
警報機が無造作に置かれている。廃止以来ずっと置いてあるのだろうか?
明治以降の100年と少しのことだけど、敦賀の歴史の一端に触れることができた。金ケ崎界隈であった。この近くには他に金ケ崎城があるのだけど、コンテナ群の背後の山の向こうなので断念。結局、ここもわずか20分の駆け足で次の場所へと向かうのであった。もう少しゆっくり見て回ろうよ。
今回はこんなところで。
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