仏生山へ行ってきた その10
法然寺の続きです。細かすぎるのかも。
ここから上っていく。左右はお墓が並ぶ。法然寺は頼重が松平家の菩提寺にしたのだが、墓所以外の場所は貴賤を問わず、またお寺自体は浄土宗なのだけど、宗派も問わず、誰でもお墓を与えると定めており、以来それが守られている。松平頼重公は家康の孫、御三家・水戸徳川の徳川光圀の兄だからというわけではないにせよ、名君だったのだろうと思わせるエピソードだ。
ひっそりと佇む正倉院のような建物。この校倉造、高床式の建造物は古寶蔵だ。ここに法然上人と親鸞聖人の御影を祀ってある。
さらに上ると現れるのが来迎堂だ。
正面に阿弥陀如来、その他に25もの菩薩の像が並んでいる。これは仏が浄土から迎えに来るという来迎を表している。先ほどの三仏堂と同じで、絵ではなく、立体的に表現している点で貴重なのだという。
来迎堂を通り過ぎて奥へ行くと般若台がある。松平家の墓所だ。ここには藩主(2代、9代、10代を除く)とその正室、明治以降の当主と夫人、またその類縁のものまで多くが眠る。藩主の命日にあたる日に公開されている。
墓所に石垣がある。それだけ厳重に管理されていたということなのだろう。
池の堤の改修工事のために人柱を埋めたという「いわざらこざら」の伝説の残る平池(へいけ)。
来迎堂から文殊楼を望む。この画は秋の紅葉の季節にはいいかもしれない。
チラッと鐘が見える。
こうして眺めると額縁に入った絵のようで面白い。
文殊楼。新緑で半分ほど隠れてしまっている。
左に梵天が
右に帝釈天が祀られている。
文殊楼を抜けたところから撮ると様々なものが一度に見られる。手前がもともと二尊堂があったところ、正面奥が仁王門、その左が五重塔、さらに左が三仏堂と並ぶ。
礎石だけが残る元二尊堂。阿弥陀如来と釈迦如来を祀っていたのだけど、2014年(平成26年)に失火により焼失してしまった。このときのことはよく覚えている。家族で香南町の温浴施設へ行った帰り道に燃え上がる炎を遠目に見たのだ。位置的に法然寺だとは思ったけど、まさかそんなことはないと疑わなかった。しかし、翌日のニュースで全焼と知り、けっこうショックだった。あれからもう9年にもなる。
仁王門と五重塔。だいぶ近づいてきた。参道の左右には灯篭がずらりと並ぶ。
逆から。灯篭もこれだけ並ぶと壮観だ。
五重塔。頼重が般若台から掘り出した仏舎利を納めるために五重塔の建設を計画したものの、実現しないまま世を去った。そして、江戸時代に造られることなく時代は進んで、2011年(平成23年)にようやく悲願が達成された。総檜の瓦葺き屋根の立派な塔は昔ながらの伝統様式を用いつつ、現代技術を加えたものとなっている。それにしても、青空が映える。
三仏堂へ通ずる涅槃門。分かりにくいけど、扁額には法然寺と書かれてある。
仁王門。参道がまっすぐ伸びている。
阿形。
吽形。どちらも筋肉隆々、力強い。
門の裏へ回れば、それぞれのものと思われる巨大なわらじも祀られている。
多分、自分の真後ろに自分のわらじがあるのだと思う。
以上、2回に分けて法然寺をお送りしました。こんなに紙幅?を割くことになるとは思ってもいなかった。
今回はこんなところで。
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