史跡高松城跡 その1
5月5日に高松城跡…玉藻公園へ行ってきた。今日は年に何回かある無料開放日の1日である。そういう日だから来たわけではない…嘘です、だから来ました。
3日、4日とフラワーフェスティバルが行われていて、今年はこの両日も無料であった。例年、高松中央公園で開催されるイベントだが、今年は瀬戸内国際芸術祭が行われており、高松港に近い玉藻公園が会場になったようだ。サンポート高松のシンボルタワー北側の芝生広場でもいいように思うのだが、今は何かと工事をしているので、スペースが取れなかったのだろう。
朝の散歩がてらやって来た。
高松駅側の西側から入る。左の石垣は簾櫓(れんやぐら)跡。右側は弼櫓(ゆみだめやぐら)跡。今はこうして花が植えられ、道があるが、江戸時代のこの部分は内堀で、この道は堀に架かる橋であった。写真左側は海につながり、右側は後で行く鞘橋のほうへと堀が続いていた。今でこそことでんの高松築港駅や芝生が広がるが、芝生部分はかつてはことでんが経営していたグランドホテルがあった。そういう建物があったことを知っているのはもう私のようなおじさん世代以降の人たちだろう。
無料を知らせる案内がある。
玉藻公園は昭和29年に松平公益会から高松市が譲り受けて、翌30年の5月5日から一般に開放したことから、毎年この日を無料開放としている。
さて、この高松城は讃岐松平家の居城である。が、その前の天正15年(1587年)に生駒親正が讃岐に入封、引田城、聖通寺城(坂出市と宇多津町の境にある山)と転々とした後、天正18年(1590年)に築城されたのが始まりである。その辺りのことについては「二番丁公園の桜」で若干触れている。生駒氏は讃岐一国であったが、寛永19年(1642年)松平氏が移封されるに際しては高松藩と丸亀藩に分けられた。それでも西国大名の監視役という重責を担った辺りはさすがは親藩である。
ちょっと分かりにくいけど、簾櫓跡。ツツジがきれいだ。今回はツツジに合わせて来たというのもある。
高松城二ノ丸。これらの花はフラワーフェスティバルの名残か。
二ノ丸の一角にある文櫓跡。石があまり積まれていないのでパッと見これが櫓には見えない。
鞘橋。当初は屋根はなく、欄干だけだったのが幕末になって屋根を付けたという。屋根は銅が葺かれているが、当時からそうだったのかどうかは分からない。
鞘橋から高松築港駅をのぞむ。ちょうど琴平線(黄)、長尾線(緑)の電車が停まっている。凪に近いのでビルがビルの形で水面に映り込んでいる。
矩櫓(かねのやぐら)跡。
逆サイドには天守台。
鞘橋を渡ったところに本丸虎口…入り口ですね。本丸に近いだけにこうして升形に造られている。
本丸。正面左寄りに見えるのは井戸のようだ。
地久櫓跡。二ノ丸から本丸にかけては当然ながら櫓が多い。しかも、もともと内堀、中堀、外堀とあったから守りは固い。
高松城天守台。明治時代に天守が破棄されてからはこの場所に玉藻廟という松平氏を祀る廟が建てられていた。築港駅で乗り降りする際によく眺めたものである。15年ほど前に石垣を解体して積み直したりしたので、今はこのようになっていて、廟があった頃の面影はない。ここに天守が聳えるのはいつのことだろう。
天守復元については、そういう運動がさかんに行われてはいるものの、なにぶん資料が少なすぎる。天守を破却する前の写真が数枚残るだけで図面がないのが痛い。讃岐松平家は今なお続いているのに図面がないのはどうしたことだろう。空襲で焼けたのか?
今回はこんなところで。
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