敦賀へ行ってきた その42
駅に戻ったのは発車15分ほど前であった。
12時45分発の岡山行き普通列車に乗る。少々慌ただしかったので、列車の写真は撮れず。発車するとまもなく大津川を渡る。ちょうど河口で、振り返ると赤穂港が広がる。
この手前に貨物駅の西浜駅がある。ここから住友大阪セメントの専用線とこのあと見られる三菱電機の専用線が分岐している。ただ、住友大阪セメントについては1995(平成7)年に鉄道輸送が廃止されている。
三菱電機の専用線が見えてきた。
けっこう側線が多い。昔は向こうの更地にもレールが敷かれていたのだろう。
天和に着く。単式ホーム1つの棒線駅だ。
ホームにはこの地域の謂れが書かれた看板が立っている。かつての県境はこの先にある鳥打峠だった。もともと播磨國と備前國の国境だったところだ。
田んぼと山の中を走る。
次の備前福河が見えてきた。変な線形で昔はレールが分かれていたのかなと思うのだが、これは赤穂線が当初、山陽本線の代替路線として機能させるために優等列車を直線で通過できるよう設置しようとした名残だ。しかし、それもご存じの通りのローカル線となっているのでこの構想は立ち消えになり、妙な線形だけが残った。
ただ、それとは関係なく、かつては2面3線であった。でも、それは貨物の機回し用のそれで旅客列車は当初から駅舎側の1線だけが使われている。
豊前福河駅。周りには何もないけれど立派な駅舎だ。つい降りてみたくなる。
駅舎にある看板にはここは兵庫県赤穂市福浦、駅名は備前福河駅とある。備前とは岡山県東部を差す地域だ。それなのに兵庫県とはどういうことなのか?赤穂線が1955(昭和30)年3月1日に日生(ひなせ)まで延びたとき、当地は岡山県和気郡福河村であった。同じく3月31日に日生町と合併して和気郡日生町となった。しかし、もともと兵庫県との結びつきが強かった福河の人々は兵庫県との合併を強く望んでいた。そこで1963(昭和38)年に日生町からの離脱と赤穂市との越県合併によって赤穂市の一部となった。その際に駅名は播州福河とか播磨福河にはならず、開業からの備前福河のまま現在に至っている。これは駅にちゃんとした解説は必要だ。上の段落で「かつての県境は…」と点を付けたのはこういうことだったのだ。
福河トンネルで今度こそ岡山県に入って、石谷川をかすめる。
駅前は広く、電話ボックスがあり、トイレもある。以前は駅舎があったと思わせるようなスペースがあるが、実際はどうなのだろう。
寒河(そうご)の駅名標。これは読めない。ここも相対ホーム1つのみの棒線駅。播州赤穂から3つめの駅だけど、ずっと棒線駅が続いている。
寒河を出て2つトンネルを抜けると海に出る。
楯越山(右)。
休止中のフェリーの看板が寂しげに立つ。
日生に着いた。これも読むのが難しい。赤穂線の主要駅の一つで、2面3線ののりばを持つ。かつて急行列車が走っていた頃は停車駅だった。赤穂線というといつも一気に走り抜けてしまうのだけど、牡蠣を食べに降りたことがある。ただ、その場所はさっき見た楯越山で駅から2キロ弱ほど離れているので要注意。20分以上はかかります。
日生を出て見える海が赤穂線最後の海だ。赤穂線は山陽本線より海側に敷かれているのに海が見られるのは日生付近だけ。
伊里着。何人か乗ってくる。
少しだけ伊里川に沿う。
備前片上に着く。伊里とよく似た雰囲気の駅だ。
備前片上駅名標。向こうに見える山は富田松山。
西片上手前。この辺りは少し高いところを走っている。で、下の道路だけど、2本変に並走している道があるのがお分かりかと思うのだが、このうちの真ん中の道が同和鉱業片上鉄道線の路線だった。学生時代に廃止直線の同線に乗りに行き、客車列車で吉井川に沿って柵原を目指したことを今でも覚えている。今は全線がサイクリングロードに整備されているので自転車に乗って往時を偲ぶことができる。右に見える大きな建物は備前市役所だ。
伊部(いんべ)。毎年10月に開催される備前焼まつりの最寄り駅である。
臨時快速「ラ・マル備前長船」の停車駅でもある。
それにしても、構内が広い。かつては2面3線ののりばを持っていた。今はこの列車が停まっているホームが島式で反対側はレールが撤去されていて、2面2線となっている。
伊部を出ると日本の原風景が続く。
13時24分、香登(かがと)で降りる。
乗ってきたのは115系の2両編成。先頭車が足りなくなって中間車に運転台を取り付ける改造を施した車両。101系や103系を思わせる顔つきだ。
今回はこんなところで。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません