小倉城 その2
では、本丸に入ろう。
ここにも和傘が並ぶ。きれいだ。
夜には明かりが灯ってきれいなのだろう。
大手門を折れると天守が見えてきた。
槻門(けやきもん)。藩主、公儀の役人、家老の他、主な寺の住職だけが通ることを許された門だ。そういえば、天守と大手門が野面積みだった石垣はここでは打込み接ぎになっている。石垣が築かれた時期が違うのか?でも、どちらも乱積みではある。
松の丸跡。ここに明治期に第十二旅団の本部が置かれた。
その門柱が残る。
その一角に移設された灯台がある。これは旅団とは関係はなく、小倉沖にある白洲と呼ばれる岩礁から船を守るために建てられた灯台で、幕末から明治にかけて建設に携わった岩松助左衛門の功績を称えるために当時のものを模したものがここに置かれた。今、現地では白と黒の縞模様の灯台が立っている。
松の丸の向かいは本丸になるのだけど、ここは鉄門(くろがねもん)の跡であり、この門柱は第十二師団司令部の正門跡である。戦前の城址の使い道は軍の施設か自治体の政庁だったりする場合が多いけど、小倉城も例に漏れない。
大砲のレプリカ。
門からまっすぐ歩いて通り抜けると
右手に天守が見える。
天守に近づくと宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の像が現れる。宮本武蔵は小倉に7年間滞在したという。これは養子の伊織が小倉藩にいたことも関係しているのかもしれない。
堀から見るのとはまた違った雰囲気が漂っている。
小倉城は1569(永禄12)年にこの場所に毛利氏が城を築いたのが始まりだ。もともと陸海の要衝であったこの地には昔から砦などが築かれ、たびたび豪族間の争いが見られるところだった。そして、1600(慶長5)年の関ケ原の合戦で功績のあった細川忠興が小倉に入り、7年の歳月をかけて現在の城を築く。1632(寛永9)年、細川家が熊本藩へと転封、後に入ったのが明石から来た小笠原氏で、以後明治維新まで小倉藩主を勤めた。小笠原氏はどこかで聞いたことがあると思ったら、松本藩主であった。中でも小笠原忠真(ただざね)は松本、明石、小倉の各藩主を勤めた人物だ。1代で3つの藩主を勤めるなど他に例があるのだろうか。
この小倉は九州の玄関のような位置付けで、九州各地へ向かう街道のスタート地点であった。以前、NHKの「ブラタモリ」で小倉から中津や長崎への街道の起点だったと紹介されていたのを思い出した。そういう位置にあるだけに小倉藩は幕府から九州の大名の監視を仰せつかっていた。
せっかくなので中に入ろうと思う。入り口にはけっこう行列ができている。外国人も日本の城には興味があるようだ。ちなみにここまで来るのにさらに1時間要しており、もう11時が近い。今頃は本当なら門司港へ移動しているはずの時間だ。
割愛するけど、天守の中では小倉や小倉城の歴史、鉄砲や武具の展示、宮本武蔵のことなど様々なことが紹介されていた。時間が押しているからといって端折ってはいません。じっくり見て回りました。
そして、最上層へ上がる。なんとそこはカフェになっている。こういうところで飲むコーヒーはまた一味違うのかもしれない。
北。黄色い建物はリバーウォーク北九州。
東。ここからだと小倉城庭園の全景が見える。
南。左端は北九州市役所、その向こうにはパルクールの会場も見える。さらに奥は紫川。
西。正面の屋根は八坂神社。
たっぷり1時間かけて見学した。もうお昼だ。もういい加減移動したほうがいいのだけど、次は隣にある八坂神社へ行こうと思う。隣にあるのに素通りする手はないだろう。
今回はこんなところで。
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