下松発下松行き その23
街並みは駅から近い。駅前のこの道をまっすぐ行くと町並みへと通ずる。これを「麗都路通り」と書き、「れとろどおり」と読むそうだ。
途中にあったレトロ交流プラザ。
ちょっと歩くと柳井川に出会う。上流側。河原に下りられるし、川沿いは休憩所などが整備されている。ちょうどこの右に見える壁の向こうにうどん屋があったけど、ここももうやっていなかった。15時台に営業している飲食店は全国チェーンの店くらいのものだろう。
反対の下流側。ところどころに見える河原から川へ下りる石段は荷物の積み下ろしのために設けられたもので、舟運で栄えていたことが分かる。石燈籠は常夜灯で、昼に夜に荷物が運ばれていたのだろう。
むろやの園の白壁。むろやの園とは油商として江戸時代に栄えた小田屋の屋号である室屋に由来する。50隻もの船を所有し、九州から大阪まで商圏をもっていたほどの商家で、今は博物館として当時の数々の資料が展示されている。でも、こういうところへ入ると1時間いても足りなさそうなので、外観だけ見て中には入らなかった。
白壁の脇を流れる江戸時代から残るせせらぎ水路。透明なので水路の底まで見える。
むろやの園の入り口。
この横にあった解説板。これによるとちょうど柳井のこの辺りは小瀬上関往還(おぜかみのせきおうかん)と岩国竪ヶ浜往還(いわくにたてがはまおうかん)が交わる要衝であった。街道が交わり、川が流れていれば、これはもう栄えるしかないといった立地だ。
今回、惜しむらくはここから東へ少し行ったところにある柳井の地名の由来ともなった湘江庵(しょうこうあん)に行かなかったことだ。というより、知らなかった。いや、途中でその存在に気付いたのだけど、そのときは街並みの西のエリアを歩いていてあらためて行くとなると時間がさらにかかるので断念したのだ。そこに柳の木と井戸があり、それが由来になったという。
お昼の錦町といい、下調べもせずに行き当たりばったりで訪れるとこうなる。また行く口実ができたと思えばいいというと何を強がりをと言われそう。
むろやの園の隣には景観を損なわない、いい感じの居酒屋(右の蔵や)があり、その隣にはきじや土産物店がある。ちょっとのぞいてみる。元は木地屋という木綿問屋で、今は柳井の様々なおみやげが売られている。営業しているのは土日祝日のみだ。金魚ちょうちんやその他民芸品、三角餅、甘露醤油などの名産品が並ぶ。甘露醤油をと思ったけど、気に入った容量のものがなく迷っていると、蔵があるからそちらへ行ってみてはと勧められ、醤油以外にもたくさんあるからという。結局、何も買わずに出てしまった。
この向かいには柳井日日新聞。2階に巨大な金魚が泳いでいる。
足元を見ると、小さなマンホールの蓋がある。描かれていると思っていた金魚ちょうちんがいない。
知っていれば、湘江庵へ向かうところを反転してむろやの園の向かいにある柳井市町並み資料館に入る。石造りの洋館は立派で、1907(明治40)年に周防銀行本店として建てられた重厚感ある建物だ。周防銀行は取付で休業、解散したけど、建物自体は第百十銀行柳井支店、山口銀行柳井支店として使われた後、柳井市の図書館となり、1987(昭和62)年から今の資料館になっている。
明治の小説家であり、詩人の国木田独歩の胸像がある。これは20代前半の一時期をここで暮らしていたことによる。銘板には「山林に自由存す」とある。これは独歩が詠んだ「山林に自由存す」という詩の冒頭部分だ。
中は天井が高く、思ったよりも広い。そして何より意匠が戦前だ。格式の高さが窺える。頭上に並ぶ金魚ちょうちんはこの建物では浮いた感じに見えるけど、これもご愛敬。
謎の機器。
金庫もそのまま。真ん中のボードは先ほど書いた謂れが書かれている。
白壁の町が一目で分かる。立体地図。
階段。この手すりがまたいい。で、2階へ上がる。
一転きらびやかになる。2階は歌手の柳井出身の松島詩子の記念館になっていて、実際に使用した衣装のほか、レコードのジャケット、ブロマイドなどが展示されている。
こちらは応接室。ここでも意匠にこだわっていて、落ち着いた雰囲気だ。
ゆっくり見学したので今回は東半分で終わり、西半分に入ることができなかった。なので、もう半分は次の機会ということで。今回はこんなところで。
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