三豊・観音寺めぐり その4
琴弾八幡宮の続きです。
あらためて銅鳥居。一乃鳥居だ。
銅の鳥居をくぐって右に登り口がある。そこには石の鳥居があり、これが二乃鳥居になる。この鳥居は1653(承応2)年に丸亀藩主・山崎治頼が寄進したという。丸亀藩は生駒氏と京極氏の間に山崎氏三代の治世がある。
石の鳥居の向かって左には庚申(こうしん)神社。人の中にいる3つの虫、上尸(じょうし)、中尸(ちゅうし)、下尸(かし)の三尸を抑える神が祀られている。その虫は頭と腹と脚にいるとされ、首から上の病気、臓器の病気、腰から下の病気を引き起こすとさせる。そんな虫に暴れられるとかなわないのでちゃんとお参りしておこう。
右には分からないけど、小さな祠がある。この後、本殿までの石段には左右至る所に摂社・末社があった。でも、それだけで1つ記事ができそうなくらい多いので割愛させていただきます。
さぬき十五社の第十四番にあたる。こういうのを回るのも面白そう。
随神門。写してはいないけど、この周りにはたくさんの猫が影で涼を取っていた。
ここから本殿まで381段の石段が続く。
ここにも石の鳥居。三乃鳥居。
四乃鳥居となる木乃鳥居。源平合戦の折、屋島の合戦に勝利した源義経が平家追討の成功を祈願して、この鳥居と神馬を奉納している。
琴弾八幡宮は源氏と深い関わりがある。上の義経のほかに頼義、義家親子が前九年の役平定のための必勝祈願の願文を伊豆守満綱に納めさせ、義家の弟の義光も神馬を奉納、頼朝も備中国の土地を寄進したりしている。
また、亀山天皇(在1260~1274年)が天下安全の祈祷をしたり、後陽成天皇(在1586~1598年)が宸翰(しんかん・天皇直筆の文書)を奉納したりと皇室との浅からぬ関係もある。
冠木門。書かれてある文字やら意匠からして戦前戦中に建てられたもののような感じがする。奥には注連石が見える。
突き当りを左に折れると手水舎があり、
そこを右に向くと銅の鳥居、立派な五乃鳥居が立つ。
この石段を登り切ったところに小さな手水舎があり、
正面に拝殿がある。山麓の神幸殿に続いてお参りする。祭神は応神天皇、神功(しんこう)皇后、そらから
1416(応永23)年に編纂された「七宝山八幡琴弾宮縁起」によると703(大宝3)年に西の空が急に暗くなり、日と月が3日も見えなくなった。琴弾山麓の浜には一艘の船があり、琴の音が響いた。神恵院の僧侶である日証が尋ねると八幡大菩薩であり、皇室を守るために宇佐(八幡宮)から来たが、この風景を見て去るのが惜しいと言う。また、砂浜がひと晩で竹林になったことで住民数百人で船とともに琴も琴弾山頂へ上げ、神殿を建造し、祀ったのが始まりという。1300年も前の創建だけに先の通り時の権力者などが参拝や奉納をした歴史がある。それだけ由緒ある神社ということだ。
妻が後ろを見てみてというので振り返ると観音寺の街が広がる。ここから少し東にある高屋神社からの眺めもこんな感じなのだろうか?
絵馬殿。
本殿。
若宮。応神天皇の子である仁徳天皇などが祀られている。本殿に父が祀られているので、若宮はその子が祀られているというわけだ。
展望所。
そこから見える燧灘。青い空、白い雲に青い海。
このあと、381段の石段を下りて駐車場に戻った。往復すれば金比羅さんと同じくらいの段数になるからけっこうな運動になる。運動不足の人にはいいかも、今回はこのあたりで。
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