雪とローカル鉄道 その40(大井宿)
その40って…刻みすぎ。

恵那では1時間半ほど時間がある。でも、次に乗る明知鉄道12時25分発の列車が出る30分前には着いておきたい。1時間弱は見て回れそう。

駅前通りを数分歩くと、

こんな掲示板がある。

そう、ここも中山道の宿場町・大井宿のあったところなんですね。恵那駅の旧称が大井というのもこの宿場の名前による。「ここも宿場やったんや。面白そう」と楠君。

夜になればきれいなのだろう。

中山道は東西に延びる。分かりやすいように色のついた小石?がちりばめられていて初めての人に親切だ。

定休日なのか、閉業なのか分からないけど、閉まっている店が多い。

これは元喫茶店っぽい造りの建物。この店はやってませんね。

ここもやっていなさそう。市内局番が1桁だし。

今日はお休みのようです。

いいなぁ、こんな喫茶店。

と、奈良井宿とはまったく違った趣きの街並みを歩くと橋が現れる。大井橋という。京都からだとここからが大井宿になる

底を流れるのは阿木川。
この反対側には中央本線と明知鉄道が見える。

歌川広重によって描かれた木曽海道六十九次の大井の画のレプリカが欄干に掲げられていた。
ここ恵那は律令時代に定められた五畿七道のうちの東山道が通っており、古くから重要な地域であったことが窺える。さらに時代が下って江戸時代においても中山道として整備され、宿場町として栄えた。そして、この大井橋は阿木川にかかる唯一の橋で、参勤交代や旅人が多く行き交ったという。

大井宿の解説板。大井宿は中山道の46番目の宿場で、名古屋や伊勢へ向かう下街道の分岐が近くにあることもあって美濃十六宿の中では一番賑わった宿場だったとある。

橋を渡るとそこからまっすぐ行かず、いきなり枡形になっている。これも奈良井宿同様、敵の侵入を難しくするためのものだ。奈良井宿の枡形はちょっと違っていましたが。

この先の突き当りも右に曲がる。

突き当りには釈迦如来像と弘法大師像が祀られている。

こうして見るとここが江戸時代の大幹線だったとは思えない。このマンションの辺りに番所があった。

そんな中にも古い建物がちらほら残っている。

この道の突き当りには神社がある。市神(いちかみ)神社といい、創建は室町時代の中ごろで霊石を安置し八大龍王の分霊を勧請したのが始まりとされる。その後、江戸時代に入って1632(寛永9)年には市杵島姫命(いちきしまひめ、水の神)、大己貴命(おおあまむちのみこと、大黒様)、事代主命(ことしろぬしのみこと、恵比須様)、水分神(みくまりのかみ、田の神)、稲荷大明神(五穀豊穣の神)の分霊を勧請し、合祀した。江戸時代には度々遷座が行われて、1892(明治25)年にこの位置に遷されて現在に至っている。

神社の縁起。350年以上の歴史を持つ七日市と呼ばれる例祭は、もともと神社のあった市場田の地が煙草の産地で、いい煙草が取れるということで、毎年正月七日に煙草市が開かれていた。それが起源となって今なお続いている。

拝殿。左右には夫婦杉と呼ばれる2本の杉の木がそびえる。

抜けるような青空。初日の荒天がうそのようだ。

神社を枡形で折れると白壁の塀に囲まれた門と蔵が現れる。

元庄屋の古屋家。庄屋というだけあって門からして立派だ。

蔵も大きい。

これを通り抜けるとまた枡形。「いち川」という旅館。中山道の時代からあったというから400年の歴史を持つ。宿場町だったころは「角屋」という旅籠だった。

長屋門。本陣の表門の北の門とも岩村城の門を移築したものとも言われている。


明治天皇の行在所となった元の伊藤家の住宅。ここも旅籠であった。鉄道ができるまでの宿場は明治維新となって以降も、それまでの機能を果たしていたのだろう。今回の旅で松本、奈良井に続いて3か所目の行在所だ。

犬矢来がある。

中山道ひし屋資料館。この地域では有名な商家である古山家で、大井宿の資料が展示されている。

ここが本陣跡。塀と門は残っているけど、屋敷は1947(昭和22)年の火事で焼失してしまった。

本陣を正面から。ここも枡形で、その次の枡形を折れると高札場がある。そうして、ようやくまっすぐ延びて中津川へと至る。

いつまでも大事にしてほしい。

大井宿の碑。でも、まだこの先高札場までが大井宿なのだけど、時間の関係でここで折り返す。少々後ろ髪引かれる思いもあったけど、仕方がない。楠君は「これからは街道歩きもありやな」と言う。喜んでもらえて嬉しい限り。
恵那駅には10分ほどで戻った。これなら本陣跡から目と鼻の先にあった高札場まで行けたかも。今回はこんなところで。







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