敦賀へ行ってきた その22
今から自転車を返して宿に戻れば18時半くらいにはなるだろう。夕食は19時に予約しているから十分間に合う。
とある交差点で信号待ちをしていると大谷吉継の文字が目に入った。そこには八幡神社とも書いている。せっかくなので寄ってみることにする。
八幡神社の鳥居。この周辺一帯が敦賀城の範囲になるという。
脇に立つ石柱。
手水舎。天満宮ではないけど牛がいる。
神馬の像。
絵馬堂?
扁額には「正八幡大神」とある。
これを抜ける。
扁額は「八幡宮」。よく見ると「八」が鳩が向き合っているように見える。八幡神は武運の神として特に武士から崇敬を集めた。
拝殿。ここにも菊の紋が。
八幡神社の創建は応神天皇(誉田別命…ほんだわけのみこと)が氣比神宮を参拝した際、ここを行宮としたことに由来する。八幡伸とはこの応神天皇のことを指す。704(大宝4)年に勅命により垂仁天皇の皇子で越国(今の北陸地方)の開発に尽くした五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)が勧請され、さらに780(宝亀11)年には勅願によって誉田別命が勧請されて社殿を建立、五十日足彦命を相殿として祀られることとなった。
その後、越前を治めた朝倉氏の庇護を受け、社殿を造営した。それからも織田信長が越前攻めの際に太刀を奉納したり、大谷吉継が豊臣政権下の1589(天正17)年に敦賀城主となり、本殿の龍の彫刻、大鳥居、石燈籠を寄進、江戸時代には小浜藩主・酒井忠勝が神輿を寄進して、以後小浜藩の崇敬を受け、社殿の造営や社領の寄進があった。
明治以降は1875(明治8)年に郷社に列せられ、1937(昭和12)年に県社に格上げとなっている。
横に回って本殿。
摂社末社もある。
右側の社は大谷吉継が奉納したとある。
小さいながらどれも銅葺きの屋根を持ち、立派な造りをしている。
絵馬殿に戻る。大きな絵が飾られている。源頼光公というのと文久三年とあるのは分かるのだが、内容が分からない。文久三年は1863年で幕末も幕末、江戸時代の再末期の頃だ。ところどころに「賊」とか「強盗」とか「悪鬼」とか物騒なことが書いてあり、「丹波大江山に籠って酒を呑む」ともあり、よろしくない集団のことが書いてあることは分かった。最後に退治したとあるので、源頼光が賊を成敗したのかなと勝手に思っているがいかに。
で、調べてみると、これは頼光以下6名が賊を討ったという話を文久三年に絵師によって描かれたもののようだ。源頼光は平安時代の武将で、藤原道長の側近であった。
大谷吉継の絵が奉納されている。
絵馬殿をサイドから。本当に絵馬殿なのかどうかは不明。神楽殿なのかもしれない。
小さいながらもいろいろ詰まった神社だった。それでは宿に戻ろう。今回はこんなところで。
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