敦賀へ行ってきた その9
西脇市を出るとすぐ2度目の加古川を渡る。
新西脇は鍛冶屋線にあった西脇に対して「新」を冠しているようだけど、相対式ホーム1つの棒線駅で周辺には住宅があるだけだった。
さらに進むと時速25キロ制限の標識が出てきた。手前の窓のフレームにピントが合っているけど、このくらいなら読めますよね。
最近乗ってきた路線で25キロ制限がかかっていたのはいずれもJR西日本になるけど、芸備線や木次線といった超閑散路線だった。乗客が少なくなるとはいえ、加古川線はそこまで閑散としていないだろう。まさかである。でも、こうして見ると中国山地の山岳路線の写真だと言われても納得してしまいそう。
次の比延(ひえ)は駅前に砂利があり、バスの停留所を思わせるちょっとした屋根があるだけの寂しい駅だ。でも、かつては相対式ホームを2つ持つ2面2線の駅であった。そして、当然このスペースには駅舎があった。今でこそ、住宅が並ぶだけの風景だけど、昔はこの駅周辺にはいろいろはお店があったのだろう。
速度制限さえかからなければけっこうなスピードで走っている。
何やら違和感のある建物が現れる。これは岡之山美術館だ。西脇市出身の美術家・横尾忠則の作品を中心に展示されている。
日本へそ公園に着く。その名のとおり、日本へそ公園がある。東経135度と北緯35度が交わる地点がこの地にあることから「日本のへそ(大正のへそ)」と呼ばれている。「日本のへそ」に関しては全国で6か所が名乗っていて、それぞれ一理あるので、どれと決めてしまわないほうがよさそう。
加古川はたまに出会ったり、横切ったりする。
レールが分岐していく。
黒田庄。久しぶりの駅らしい駅だ。ただし、停車した向かいにはホームもレールも残っているのに使われておらず寂しい。駅舎側には貨物用の引き込み線も残っていて、かつては賑わっていたことが窺える。
廃ホームに残る駅名標。レールは錆びている。この旧上り線のレールはこの先で切れていて、乗り入れることはできなくなっている。
次の本黒田も棒線駅。西脇市以降こういう駅が続いている。ここもかつては相対式ホーム2つ持っていた。この地区は戦国武将・黒田官兵衛の出生地でホームにはその看板が立っている。黒田家は播磨を治めた小寺氏や赤松氏の家臣であった。ひとつ手前の駅の黒田庄というのはこの辺を黒田氏が抑えていたからそれを駅名にしたのだろうと思う。
船町口を出ると加古川と篠山川に分かれ、篠山川に沿って再び25キロ制限となり、のんびり走る。すると、山の中腹に巨大な建物が現れた。調べてみると円応教(えんのうきょう)の本部だそうだ。
篠山川。
次の久下村(くげむら)も片方のホームが廃止されて棒線になっている。
駅舎はなく、屋根だけの簡素なもので駅前だけがやけに広い。ここまで無機質になると駅が廃止にならないだけましと思うほかない。
篠山川を渡る。
保線車両が見えてきた。
左からレールが。福知山線だ。
加古川線は専用のホームに入る。
そうして、谷川に着いた。加古川線の駅名標は撮っていなかった。なんということを。
西脇市からは乗客の乗り降りはほとんどなく、ほぼ同じメンバーで谷川まで来た。つまり、青春18族がいなければ、乗客はほぼいないということなのだろう。こんな状況ではではこの本数でも仕方がないと思った。
今回はこんなところで。
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