史跡高松城跡 その5
披雲閣庭園を出ると櫓に出る。
月見櫓だ。こういうと風流かと思うかもしれないが、「ブラタモリ」では「着見櫓」との説明があった。それは参勤交代から帰って来る藩主を見るつまり、「着見」の意味である。またこの櫓から高松近海を通る船の監視をしていたということだ。ここも今日は入ることができるので、入らせてもらう。普段でも毎週日曜日には開放しているので興味のある方はぜひどうぞ。月見櫓の左、おじさんが立っているところがから入るのだが、そこは続櫓という。
月見櫓の左にチラッと見えているのがこの水手御門だ。右が続櫓で左は渡櫓。江戸への参勤交代はここから出立し、ここへ帰って来ていたから「御門」と呼ばれる。
中に入ると玉藻城変遷史というのがあった。ここに月見櫓が着見櫓と書かれてある。
四天柱。これが初層から三層にかけて通っている。
松が植えられていたり、休憩所があったりしてきれいに整備されているけど、明治になるまでは左の石垣までは海だった。
正面の島は女木島。船は左が庵治の大島からの便、真ん中が国際両備フェリーの池田からの便、右が小豆島フェリーの土庄行きとちょっと慌ただしい。ちなみに左に見える櫓のようなものは報時鍾といい、高松初代藩主松平頼重が城下の人々に時を知らせるのに造ったもので、もともとは外堀の西南にあった。のちにこの近辺を転々とすることとなるが、市制90年を迎えた昭和55年にこの地へ移築している。これは1階部分からの眺めだが、それでも遠くまで見渡せるのが分かる。
梯子のような階段。これほど急では手すりがないとちょっと危ない。
最上階から渡櫓と披雲閣をのぞむ。この高さからでも高松の街を一望できる。
江戸時代に屋根の上に乗っていた鯱。
潮が引いていたので、水手御門から外へ出てみる。続櫓も外から見ると鉄砲狭間や石落としがあって格好いい。
この奥に武櫓(ぶのやぐら)跡が見える。
水手御門を城外から。ここに舟を着けて出ていたわけだ。
無数の巻貝が散らばっている。潮が満ちると砂の中に隠れるのだろう。こうして、潮が引いているからと門の外へ出ているけど、舟を着ける場所だったから、当時はこんなに浅くはなかったはずだ。
この石垣は中央部分できれいに線を引いたようになっている。これは右側が生駒氏時代のもので、左がのちに松平氏によって継ぎ足されたものである。
渡櫓の石垣にあった刻印。丸に十字はどう見ても島津のものだろう。でも、なぜここに島津の刻印のある石があるのだろう。親藩の普請だから外様が供出したのか?
月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓。両サイドにかかる松の木が気になるが、全体が撮れるのでよしとしよう。
左は海側なのだが、なぜか石垣は真っすぐに築かれず、一定の間隔で内側に張り出している。城内を一通り歩いたが、こういうのはここだけだ。敵への攻撃をするための場所なのだろうか?けっして松を植えるためのスペースではないというのは分かる。
入城した時はまだ開いていなかった和船の乗船券販売所が営業を始めている。グッズの販売の他、乗船する際に必要なライフジャケットや菅笠も見える。
これにて高松城散策は終わりです。これで約2時間かかりました。じっくり見て周ったというのもあるが、実働10年を超える我がデジタルカメラがちゃんと動いてくれず、止まったら再度動くまで待つというのを何回か繰り返して撮影をしていたのが原因だ。もっとも、そのおかげで櫓2つの見学ができたので、よしとせねばなるまい。
今回はこんなところで。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません