四国の夜行列車

四国には国鉄時代からJRの最初期まで夜行列車が走っていた。今回は上り列車について見てみようと思う。

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私がリアルタイムで買った時刻表で一番古いのは写真の1984(昭和59)年7月号だ。日本交通公社ではなく、弘済出版社の大時刻表であった。今のJR時刻表を出している交通新聞社の前身である。

当時中学生だった私が四国一周旅行というか、鉄道に乗るだけの旅をしようと思ったのがきっかけだった。結局、この旅はその計画を学校の担任に正直に伝えたために却下されて未遂に終わる。クラスメイトから言わずに黙って行けばよかったのにと言われたのを覚えている。表紙の房総夏ダイヤとか国鉄のキャンペーン「エキゾチック・ジャパン」が懐かしい。郷ひろみの「2億4千万の瞳」はこの年の2月のリリースであった。

初めて買った時刻表ということもあり、その後もかなり読み込んだ。四国以外にも気になる列車がたくさんあった。いずれ紹介できればと思っている。

かつては狭い四国にも夜行列車が走っていた。ただ、狭いゆえか、全廃されたのはJR旅客6社のうちで最も早かった。瀬戸大橋線が開業した翌年の1989(平成元)年のことであった。

ところで、四国の本州連絡は夜行列車はもとより特急や急行の優等列車も宇高連絡船を介して新幹線と連絡する形が取られていた。これを現在にあてはめると特急や「マリンライナー」と新幹線に相当する。このうち、夜行列車に関しては下りは岡山行き最終の2本前、上りは岡山始発の一番列車に接続していた。つまり、今の快速「マリンライナー2号」→「のぞみ70号」の接続の原型にあたるのだが、連絡船を利用して新幹線の上り一番に接続するとはいかに?

現在の「マリンライナー2号」だと恩恵を受けるのは香川県、それも高松-坂出間の人だけだ。でも、昔は予讃線、土讃線からも始発の新幹線を利用できた。では、どういう接続だったのか?岡山始発の新幹線というのは6時04分発の「ひかり150号」で、東京着は10時34分だった。当時、岡山-東京間は4時間かかっていた。これに接続する宇野線の列車は宇野発5時02分、岡山5時44分着。さらにそれに接続する連絡船は高松3時52分発、宇野4時52分着…岡山から逆に記してきたけど、高松発は3時52分である。「マリンライナー2号」の発車が4時35分発なので、それよりも40分以上早いスタートだった。

だが、国鉄時代はこれでは終わらない。予讃線は宇和島から、土讃線は窪川からそれぞれ列車が出ていたのだ。もっというと、予土線からも宇和島、窪川でそれぞれ1時間ほどの待ち時間はあるものの、上下どちらからでも接続していた。ともあれ、4時前の連絡船に間に合うように走るとなると髙松着は3時半くらいになる。夜行というよりは半夜行といったほうが正しいだろう。だからこそ、目に付いた。

こちらは予讃線。

これは土讃線。以上、弘済出版社の大時刻表1984年7月号より。

予讃線は宇和島発21時20分、松山発0時18分、高松着3時36分。土讃線は窪川発20時43分、高知発23時20分、阿波池田発1時30分発、高松着3時17分となっている。予讃線夜行は元々は全区間急行で「うわじま」だったものが宇和島-松山間は普通列車、松山からは急行「いよ2号」と変更され、土讃線夜行は中村線開業後は中村始終着だったのが後に上りのみ窪川乗り換えに変わった。松山で種別が変わるようになったのは、東北・上越新幹線が開業した1982(昭和57)11月改正でのこと。

編成はともにキハ58系であった。急行で運行されている予讃線はともかく、なぜ快速で走っている土讃線で58系だということが分かるのか?まだ四国に急行グリーン車の設定があった1980(昭和55)年改正以前は予讃線の急行にはもちろん、土讃線の夜行にも自由席ながらグリーン車が連結されていたのだ。でも、この改正で急行からグリーン車が廃止された。では、編成からグリーン車が外されたのかというと、そうではなく車両はそのままで普通車指定席へ格下げとなったのだ。グリーン車が消えたからといって車内設備に変わりはないから指定席急行券でグリーン車を利用できることになった。

では、ここからは古い順に見ていこう。

誕生は1961(昭和36)年10月改正のことで、まだ優等列車ではなく、客車の普通列車であった。時刻は松山23時35分発、高松4時38分着で、到着時刻なら半夜行ではなく、普通に夜行列車である。連絡船は高松4時50分発、宇野5時55分着。宇野からは6時24分発の大阪行き普通列車に接続して、11時46分に到着していた。交通公社の時刻表1961年10月号より。

たびたび指が入ってすみません。土讃線の始発は窪川ではなく、須崎となっている。こちらは須崎21時37分発、高松4時30分となっている。交通公社の時刻表1961年10月号より。

東海道新幹線開業の1964(昭和39)年10月改正。交通公社の時刻表1964年10月号より。宇野からの接続列車は変わらず大阪行き普通列車。

土讃線の掲載箇所が本の「のど」の部分にかかっている。これを無理に広げると背が割れてしまうので、これだけ載せることができませんでした。時刻は須崎21時44分発、高松4時34分着。前年に中村線が開業し、路線が窪川から土佐佐賀まで延長されている。

1965(昭和40)年のダイヤ改正で予讃線の夜行は準急「いよ4号」に格上げされる。交通公社の時刻表1965年11月号より。

土讃線夜行は客車鈍行のまま据え置かれ、須崎発も変わらず。ここで一緒に優等列車化されなかったのが最後まで響いたのか?急行になることなく廃止されてしまった。交通公社の時刻表1965年11月号より。

で、予讃線が優等列車化されたからか、宇野線が整備されたからか、宇野線でも受ける列車が客車鈍行から準急「鷲羽2号」に変わっている。交通公社の時刻表1965年11月号より。準急「しんじ」小郡行きというのがたまらない。

「よんさんとお」と呼ばれる全国白紙改正となった1968(昭和43)年10月改正時。予讃線は「いよ」から「うわじま」となり、宇和島始発となっている。連絡船の所要時間が1時間10分になっている。交通公社の時刻表1968年10月号より。

土讃線夜行。始発駅が窪川に延長されて、1等車が連結されている。交通公社の時刻表1968年10月号より。

「鷲羽」は1966(昭和41)年10月より準急から急行になっている。右端に「特」の文字が見えるのは特急「うずしお」だ。交通公社の時刻表1968年10月号より。

山陽新幹線岡山開業の1972(昭和47)年3月改正。なぜ本文ではなく連絡時刻表なのかというと、本文の「うわじま9号」掲載箇所もまた本の「のど」の部分にあり、先ほどと同じ理由で撮るのを諦めて、やむを得ず連絡時刻表からの引用としました。おかげで東京までひと目で分かるのは怪我の功名?ただ、土讃線夜行が載っていない。交通公社の時刻表1972年3月号より。

土讃線はかろうじて写せた。右端に駅名が掲載されているからだ。ご覧の通り、このときは中村始発になっている。中村線は1970(昭和45)年10月に全通している。ただし、グリーン車の表記はない。このときの連絡船の高松発は3時25分なのに対して土讃線夜行の高松着は2時54分と早い。交通公社の時刻表1972年3月号より。

山陽新幹線博多開業の1975(昭和50)年3月改正。列車種別の記号が今のものと異なる。あと当時は上下とも発車順に1号、2号と付されていた。今の下り奇数、上り偶数となるのは1978年10月改正からである(新幹線は開業当初から)。予讃線に特急「しおかぜ51号」という夜行特急があるのが面白い。当時はあちこちで昼行特急の間合い運用で臨時夜行特急が走っていた。それだけ需要が旺盛だったということだ。連絡船は4時発と改められている。交通公社の時刻表1975年3月号より。

1978(昭和53)年10月改正。この改正までは宇野線部分は快速であった。しかも、グリーン車が連結されていた。ここまでの変遷からお分かりかと思うが、急行「鷲羽」の名残りである。左の夜行「鷲羽」絡みの記事もいずれ出したいと思っています。連絡船の時刻が少し違っているのが分かる。連絡船に混じって運用に就いているホーバークラフトが懐かしい。交通公社の時刻表1978年10月号より。

時刻表で使われている記号は長い歴史で変化があったが、現行のものは概ねこの頃までに出そろった感じだ。

このときは「うわじま16号」だった。交通公社の時刻表1978年10月号より。

グリーン車が連結されていた最後の土讃線夜行。右の高徳線の高松の始発にもグリーン車が連結されているのが見える。交通公社の時刻表1978年10月号より。

1980年ダイヤ改正での全区間急行運転だった最後の予讃線夜行の時刻。連絡船が若干早い出航となっている。また、先に書いた通り、グリーン車はない。交通公社の時刻表1980年10月号より。

同じく1980年ダイヤ改正の土讃線夜行。このときの高松での待ち時間は1984年のときより短かった。交通公社の時刻表1980年10月号より。

で、冒頭の1984年に至るわけだが、この2つの半夜行列車は翌年の1985(昭和60)年3月改正で消えてしまう。これ以降、「マリンライナー」が登場する、すなわち宇高連絡船が廃止される1988(昭和63)年4月までの3年間の連絡船上り始発は7時過ぎとなり、3時間以上も遅くなった。こうなると、東京着は午後になってしまい、鉄道はまったく競争力を失ってしまった。

幸い瀬戸大橋が、「マリンライナー」がその系譜を復活させてくれた。だからこそ、高松だけと言わず、予讃、土讃、高徳各線から夜行列車を走らせて接続させればいいのにと思う。高徳線は単独だと距離が短すぎるから牟岐線を加えてもいい。予讃、土讃線からは坂出に5時前に、高徳線だと高松に4時過ぎに到着するダイヤを組めばいいだろう。このダイヤだと半夜行にはならないから髙松まで利用する人にも利用しやすい。あとは増収など変に色気を出さずに快速で走らせるのがいい。

四国にも昔はこんな面白い列車が走っていたことを思うと今はつくづく味気ないなと憂うわけです。今回はこんなところで。