広島日帰り その8
15時03分、広行き普通列車に乗る。
呉を出るとすぐ渡る堺川には枕木の残る鉄橋跡が並走している。
これは旧海軍工廠専用線の跡でこのレンガ造りの門が出入り口だったようだ。地図を見ると今は海上自衛隊の教育隊となっている。
クレーンが林立する。造船業が盛んなのは昔も今も変わらない。
ここから呉トンネルに入って、抜けたところが安芸阿賀だ。
ブレてますが、ここでも「安芸路ライナー」と交換する。
すぐに発車すると黒瀬川を渡る。大きな川だ。
地図を見るとこの倉庫は中鋼運輸となっているので、その専用線なのだろうか。でも、使っている様子はない。
そして新広に停まりながら側線が現れて広に着く。昔はもっと側線が多く、広かったようだ。
広駅の駅名標。広の沖に浮かぶ下蒲刈島には江戸時代に往来のあった朝鮮通信使を歓待したという記録が残されている。広は1935(昭和10)年3月に呉から延伸されて誕生した駅で、同じ年の11月に三呉線・三原-安浦(当時は三津内海=みつうちのうみ)間と繋がって呉線が全通している。呉線内では呉とともに主要駅の一つに数えられ、優等列車の停車駅でもあった。現在は快速の一方の終着駅になっていて、今なお貫録を見せる。
そういう駅なので、いろいろ撮影したいところだけど、ゆっくりする間もなく1分接続の15時14分発三原行きに乗る。が、1分の乗り換えでは列車を撮る時間すらなく、すぐに発車する。でも、次の列車となると1時間待たなければならない。これ以上、遅くなるのは避けたいのですぐの列車を選んだ。
次に停まったのは仁方(にがた)。何の変哲もない小さな駅だけど、かつては国鉄連絡船の仁堀航路があり、予讃本線の堀江との間を結んでいた。しかし、民間のフェリーに押され、最大でも3往復しか運航されず、知っている人も少ないという地味な航路ではあった。それでも東京-広島間を呉線経由で結んだ急行「安芸」は仁方に停車していたし、堀江でも髙松-松山間急行「いよ」が停車したりしていた。そして、何より本州と四国を結ぶ航路が2つあったことで一筆書ききっぷで四国に入ることができた。そんな面白い時代もあったのだ。
久しぶりの海。
次の安芸川尻は比較的大きめの駅だ。駅舎の横には貨物ホームも残っているし、側線には保線用車両も停まっていた。「名称案内」が国鉄っぽさを醸し出していていい。
安登(あと)で広行きの普通列車と交換して安浦に着く。この駅も先の安芸川尻同様、優等列車が停車する主要駅ではなかったけど、駅自体は2面3線を持ち、側線もあるので急行くらい停めてもいいくらいの雰囲気がある。石造りのホームもいい。広めの構内は1935(昭和10)年に全通する前の西側の終着駅であったからだ。ここから先、竹原までが最後に開業した区間となる。
シオマネキがいるらしい。
この跨線橋も年季が入っている。
正面に見えるのは柏島。周辺は牡蠣の養殖筏が浮かぶ。手前の道路脇に見える白い塊は牡蠣の殻だ。
牡蠣小屋と養殖筏。こういうところで食べると美味しいんだろうな。この辺りは高いところを走るので見晴らしがいい。
風早駅。何の変哲もない小駅だけど、ここは因縁浅からぬ場所である。前回呉線に乗ったときのことになるのだけど、目黒君とともに楠君のいる徳山(現周南市)へ予告なしに行った。そのバチが当たったのか、沿線火災で足止めを喰らってしまった。そのとき身動きが取れなくなったのがここ風早駅であった。結局、3時間半ほど待った挙句、三原へと折り返す羽目になった…あれ?前回の呉線はこのときと記憶しているが、ちゃんと乗っていなかったのか?その前となると初乗りの学生時代まで遡らなければならない。
次の安芸津は杜氏の故郷とある。wikipediaによると安芸津は吟醸酒発祥の地、広島酒の祖杜と言われ、各地へ広まっていった。西条ともども東広島の酒どころだ。現在、2つの酒造メーカーがある。あと気になるのが今は埋められているけど、ホーム中央にある構内踏切の跡が歴史を感じさせる。
加茂川を渡り、
竹原に着く。ここで6分停車する。でも、下り列車は来ない。
竹原でようやく乗っている列車の写真を撮る。これも227系なので、もういいですかね?街並み散策は次回以降にお預けだ。
今回はこんなところで。
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