キハ40系の追っかけ その21(徳島中央公園①)

「その19」で書いた通り、次に乗るのは14時58分なので5時間半もの待ち時間がある。これは今タイトルが「キハ40系の追っかけ」である以上、キハ40系が運用に就かなければ他の列車には乗らないからだ(最初と最後は違います)。現状、キハ40系は朝夕の通勤通学時間帯しか運行されず、昼間は車庫でお昼寝している。キハ40系にこだわる以上、日中は空白の時間帯になる。

徳島駅構内や駅前をいろいろ撮影したら30分が経過した。これはいつものことだけど、それも終わり、これからどうするか。いつもなら新町橋通りを歩いて阿波踊り会館を目指し、眉山へ登ったり、お土産を買ったり、道中で徳島ラーメンを食して駅に戻るパターンなのだが、毎度それでは読んでくださる方に申し訳ない。

城山

なので、今回はいつもと逆方向、駅の北側にある徳島中央公園を訪れることにした。全部回って2時間くらいかなと勝手に考えている。

徳島運転所

駅前から線路沿いの道を歩いていく。車両を見ながら歩くので気が紛れていい。

歩道橋

この歩道橋まで5分ほど。これが駅にあればすぐ行けるのに。

案内板

案内板。

野口雨情の歌碑

そのそばには野口雨情が1936(昭和11)年に徳島に来て「むかし偲んで 徳島城の松に 松風絶えやせぬ」と詠んだ歌碑がある。雨情は昭和のはじめに徳島をはじめ、牟岐や池田などを訪れて各地で詩を詠んでいる。

列車が走る

ちょうどそこへ列車がやってきた。歩道橋のフェンスの間からなのでのぞき見のようで変ですが。

鷺の門広場

ここからはカメラで撮った写真なので4:3になっています。鷺の門広場から下乗橋をのぞむ。

鷺の門

鷺の門。徳島の空襲で焼失したが、1989(平成元)年に当時の場所とは少し異なるものの復元された。復元とはいえ、40年近く経つと何となく当時からある建造物のように見える。高松城にも戦争で焼失し、最近復元された桜御門があり、今は白木の白が強くて浮いた感じになっているけど、あと30年も経てば味わい深くなるのだろう。

国史跡徳島城跡

徳島城跡碑。向こうに堀と石垣。石碑の周りに置かれてあるブロアといしみは清掃をされている方が使っていた。どかすわけにもいかないので、そのまま入れて撮る。

徳島市観光案内図

徳島市観光案内図。いつ作られた案内図だろう。フェリーの発着に小松島港がなく、徳島港のみとなっているので和歌山航路が徳島発着へ変更になった1999(平成11)年以降かなと。また、徳島港近くの末広道路(消されている部分は有料)の県道29号がまだ吉野川に達していないので、開通した2012(平成24)年より以前だろうと推測される。つまり、1999~2012年の間と思うのだけど、1990(平成2)年開業の文化の森駅は記載されていない。吉野川橋を渡る国道11号(今の県道39号)がいつまでだったのかも不明。吉野川大橋のある吉野川バイパスは早くから供用がなされていて、いつまで新旧の国道11号が併用になっていたのか…私にはこの辺りが限界ですね。

徳島城跡解説板

徳島城跡の解説板。北を助任川(すけとうがわ)、南を寺島川が流れ、東に堀を設けることで守りを固めているのがよく分かる。中央の城山の上に城を築き、今いるところから城内に入ると表御殿に奥御殿、城山の西に西の丸屋敷、さらに西に御花畠屋敷がある。ざっくりと西の丸は現在の内町小学校やテニスコートなどが、御花畠屋敷は市立体育館や武道館、徳島地方合同庁舎などが建っている。お城の南を流れていた寺島川はほとんどが埋められていて、徳島駅や高徳線、牟岐線になっているのは驚きだ。徳島城は1585(天正13)年、秀吉より阿波一国17万6千石を拝領した蜂須賀家政によって築城された。関ヶ原ではその子至鎮(よししげ。のちの阿波藩初代藩主)が東軍に付いたこともあり、所領は安堵され、さらに淡路を加増、二国25万7000石となり、以降江戸時代を通じて蜂須賀家が治めた。

櫓型時計

櫓型時計。本丸にあった弓櫓の縮小版に時計を設置している。

徳島県警と徳島地方裁判所

鷺の門広場から東をのぞむ。正面の白いビルは徳島県警、右隣りが徳島地方裁判所。

三木曲輪付近

三木曲輪付近と思われる。

下乗橋

では、これより下乗橋から城内に入りましょう。が、今回はこんなところで。