敦賀へ行ってきた その27
10分かけて新疋田に着いた。相対式ホーム2つの2面2線の駅で、間に通過線がある。
新疋田の駅舎。ロッジのような駅舎だ。駅周辺には人家は少なく、利用者がいるのだろうかと思わせる駅だ。ところで、ここは「新」疋田だけど、では疋田はというとそれがない。
いや、以前はあった。もう60年くらい前の話だ。これがそう。日本交通公社(今のJTB)の「日本国有鉄道監修 時刻表」の1961(昭和36)年10月号からの引用です。木ノ本-敦賀間に2本の路線があるのが分かると思う。太いほうが新しい路線で、1957(昭和32)年10月に開業し、こちらが北陸本線を名乗った。細いほうの路線は北陸本線の1882(明治15)年の開業時からの路線だったけど、この新線開業に伴い、柳ヶ瀬線というローカル線に格下げとなった。でも、優等列車は当然通らなくなり、乗客も新線に流れた上に、柳ヶ瀬線を新疋田-敦賀間の上り線用地に使うことになり、柳ヶ瀬線は敦賀へ直通することができなくなり、1964(昭和39)年5月に廃止、バス転換された。私の手持ちの時刻表で柳ヶ瀬線が掲載されているのはこれが一番最後のものだ。手持ちでこの次に持っているのは1964(昭和39)年9月号なので、4か月前に廃止されている。
関係はないけど、北陸トンネルはまだなく、敦賀-今庄間は杉津を経由している。ちなみに北陸トンネルは1962(昭和37)年6月に開通。その際、杉津経由の旧線は柳ヶ瀬線のように併存はさせず、新線開通と同時にバス転換されている。
同じ時刻表の本文にある柳ヶ瀬線の時刻の一部。木ノ本-敦賀間で2つの路線が分かれていて、ご覧の通り柳ヶ瀬線には優等列車は何も走っていない。画像の端のほうがちょっと暗い。こういう写真を撮る場合は対策が必要ですね。滅多にないことだから工夫してもこれが限界でした。
鉄道ネタですが、脱線することをお許しください。柳ヶ瀬線もだけど、優等列車が歴史を感じさせる。準急「こがね」は名古屋発名古屋行きの循環準急、準急「ゆのくに」や急行「立山」はこのあと北陸急行の代表格に成長し、準急「加賀」は主に臨時列車で走っていた。で、隣のページとのちょうど境目辺りに見えるのは特急「白鳥」。この改正から登場して、行先は青森と上野であった。しかも、食堂車を青森編成、上野編成それぞれに連結していたという今となっては夢のような列車であった。他にも大阪-青森間の急行「日本海」や同区間を走る普通列車など個性あふれる列車が数多く運転されていた。北陸本線に限らず、この頃は全国各地でこのような楽しい列車が走っていたから、この時代の時刻表は見ていて面白い。
新疋田の話に戻す。地元ではこの駅名が実情に合わないと感じているのだろう、20年ほど前から愛発(あらち)への改称運動がある。敦賀市が動いたりしているものの、結論は出ず未だ新疋田のままだ。たしかに新疋田はあるのに疋田がないとなれば、旅行者(乗り降りする旅行者は多分いないと思うけど)からすると戸惑うだろう。愛発とは疋田地区に残る地名で、もともとはこの辺りに関所が置かれていたという。といっても、江戸時代ではなく、古代、奈良時代に制定された街道のうち、北陸道の関所であった。が、どこに置かれていたかはまだ判明していない。駅名問題、どうなるのだろうか?
結局、新疋田と疋田の関係だけで終わってしまった。今回はこんなところで。
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